あおもり今・昔73

阿部政太郎とその時代(下)

 青森市会議員選挙無効の責任をとって第7代青森市長を辞職した阿部政太郎に代わって、三度(みたび)工藤卓爾が市長に就任したが、その後健康を害し、大正13年(1924年)11月に辞職した。
 市会では派閥的な対抗意識もあり、後任市長の人選は難航したが、結局市長推薦市会で阿部が再び市長に選出されることになった。
 第9代市長在任中には、青函航路において貨車航送が実現に至った。青函航路は、明治39年(1906年)の鉄道国有法の施行により、鉄道院が日本郵船株式会社からその経営権を買収して以来、その発展はめざましかった。しかし、青函両港の連絡設備が不完全で運べない荷物が多くなり、そのうえ、積み替えの際にも時間がかかったことから、荷物の傷みも激しかったので、積み替えの必要がない貨車航送事業が決定され、大正14年8月に開始された。これに伴って、大正15年10月に貨物列車の操車場(ヤード)が浦町に完成した。操車場によって柳町から大野・荒川へ通じる道路が分断されることになったため、渡線橋建設の請願が国会に提出されたが、巨額の費用と鉄道省の作業上の支障を理由に却下された(昭和61年4月の青森中央大橋有料道路の開通により、ようやく悲願が達成された)。
▼大正14年鉄筋コンクリート造りとなった青森市公会堂
大正14年鉄筋コンクリート造りとなった青森市公会堂
「目で見る青森の歴史」より
 大正14年10月には、工藤前市長時代に計画され、大正13年7月に旧公会堂の位置(現在のしあわせプラザ)に起工された新公会堂が完成した。豪壮重厚な東北一を誇る新公会堂は、鉄筋コンクリート3階建てで、その構造は耐震に重点を置いており、昭和20年7月の青森大空襲でもその戦災を免れた。
 翌年の大正15年2月には、市内初の乗合乗用車を経営していた篠原善次郎(鹿児島県出身で北海道開拓使庁勤務後に青森市へ移住)から、市に自動車6台と現金1万5千円の運営資金を寄付するとの申し出があった。篠原は2年前にも寄付を申し出たが、採算が合わないという理由で断られた経緯があった。しかし、市民の足は公営事業が得策との篠原の篤志(とくし)に接した阿部は、市会参事会と協議を重ね、同年4月より青森駅と合浦公園を結ぶ4.2キロメートルの区間で市営乗合自動車の経営を開始することに力を尽くした。
 その後、阿部は再び任期半ばにて職を辞することとなるが、歌人として活躍しつつ、昭和9年(1934年)9月、青森市造道の自宅で永眠した。 (敬称略)
【近・現代部会調査協力員 竹村俊哉】

※『広報あおもり』2000年8月1日号に掲載


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