あおもり今・昔70

淡谷清蔵とその時代(上)

 淡谷氏は淡路島の出身で、初代の源四郎は明和元年(1764年)に北前船(きたまえぶね)(北海道や東北の物資を、松前から日本海沿岸各地に寄り、下関を回って大阪などに輸送した船)に水主(かこ)(船乗り)として乗り込んでいたが、その航行中に龍飛(たっぴ)沖で遭難し、救助されたあとそのまま青森にとどまり、安方町で阿波屋という屋号の魚商を営んだ。その後、淡谷家は家業を魚商から呉服商へ転換し、屋号も「大世」となって、青森町屈指の豪商へと成長していった。
▼淡谷清蔵 
淡谷清蔵
「目で見る青森の歴史」より
 源四郎から5代目にあたる淡谷清蔵は幕末の弘化3年(1846年)に生まれた。明治になると清蔵は大坂金助、渡辺佐助らとともに青森政財界の重鎮となる。清蔵が活躍したころの青森は明治24年(1891年)に東北線が開通、明治41年に青函連絡船が就航し、北海道への出稼ぎや移出される物資の集散でにぎわいを見せていた。特に米は、津軽米が青森町の米商人により、北海道へ移出され取引も大きかった。しかし、米価は変動が激しく、投機の対象になってきたので、米取引の健全化を図るため米穀取引所の設立が要望された。当時、政府では商業会議所のないところには認可できないとのことで、青森の財界は商業会議所の設立を企て、清蔵はその前身となった青森商業倶楽部に首唱者として名を連ねている。明治26年に青森商業会議所(後の青森商工会議所)が設立され、翌年青森米穀取引所は認可された。清蔵は青森商業会議所第2代会頭に就任し、青森財界の束ね役となり、町全体をあげて行う事業には指導的立場で関わっていく。その一つが明治30年の青森電灯株式会社開業である。清蔵は設立発起人であり、設立後は取締役となった。
 明治31年4月1日に青森町が市制施行すると、清蔵は初代の市議会議長となり、その後、市長に就任する明治41年まで議長の要職に就いた。歴代議長で在職期間が最長の清蔵は、大坂派(金助)に対抗して淡谷派を率い、市政を左右する影響力を持っていた。 (敬称略)
【近・現代部会調査協力員 宮本利行】

※『広報あおもり』2000年6月15日号に掲載


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