あおもり今・昔67

笹森儀助とその時代(上)

 青森市の第2代市長は笹森儀助である。笹森は、政治家としてはもちろん実業家・探検家としてもよく知られた人物である。市長としての在任期間は明治35年(1902年)5月から明治36年12月までのわずか1年8か月に過ぎないが、この期間に実施された事業には青森市政にとって重要な意味をもつものがあった。
 笹森は、幕末の弘化2年(1845年)、弘前藩士・笹森重吉の子として生まれた。重吉は碌高(ろくだか)百石で藩の御目付役の要職にあった人物である。笹森は小姓組として藩主に仕えたが、廃藩置県後、青森県弘前支庁を皮切りに、県内各地で行政官として勤務している。明治11年(1878年)、中津軽郡長に任じられたが、時の県令(けんれい)山田秀典と政治路線上で対立し、同14年、突如としてこれを辞している。
 これから間もなく、笹森はかねてからの念願でもあった牧場経営に着手する。彼がこのような構想を持つに至った背景として、若き日に師事した山田登の影響がある。山田は弘前藩士として富国強兵策を唱え、新田開発にも従事した人物である。
▼笹森儀助 
笹森儀助
「目で見る青森の歴史」より
 笹森は、旧弘前藩士で政治的同志でもあり、第五十九銀行(現在の青森銀行)の創設者でもあった大道寺繁禎とともに農牧社を設立し、大農経営により牛馬を飼育する常磐野(ときわの)牧場を開設した。
 当時、県内各地には同様の大牧場が開設されているが、これらの多くは間もなく経営難に陥り、閉鎖の憂き目を見ている。笹森の常磐野牧場も同様であった。
 明治23年に農牧社を辞した笹森は、それからしばらくの間、西日本各地をはじめ、千島列島や奄美大島方面に旅行し、これら各地の産業や風俗などを詳細に調査している。これらの旅行視察記は、それぞれ「貧乏旅行之記」、「千嶋探検」、「南嶋探検」としてまとめられた。特に「南嶋探検」の学問的価値は今日に至るまで高く評価されている。また、これが機縁となり、明治27年8月には奄美大島島司に任命されている(同31年辞任)。笹森の探検視察記には、このほかに「西伯利亜(シベリア)旅行記」「咸鏡道(かんきょうどう)視察談」などがある。
 笹森は各地の探検、視察を終え、明治34年5月に帰郷するが、その時には既に57歳となっていた。笹森は「引退」を願って帰郷したものと思われるが、翌明治35年、青森市の第2代市長に選出されたことで、その想いは打ち消されることとなった。 (敬称略)
【近・現代部会長 末永洋一】

※『広報あおもり』2000年5月1日号に掲載


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