あおもり今・昔3

堤川

 多くの都市は、そこを流れる「川・河」を中心として形成され、発展してきた。
 かつて川は、交通の主要路であり、また流通の手段でもあり、文物の交流にとって重要な役割を果たしてきた。だからというわけではないにしても、それらに関係する用語に「流」が使われている。
 本市の中央を流れる『堤川』も、かつては船・人・物の往来で賑わいを見せていた。河口には多くの船が係留されていて、川をはさんだ両岸の地域は、商家や今で言うレジャー施設があった。また藩政期には「旭橋」(別名“弁慶橋”・・・橋の欄干に擬宝珠(ぎぼうしゅ)が付けられたことで、京都五条大橋での牛若丸と弁慶にちなんで言われた)だけだったのが、明治以降多くの架橋がなされた。
堤川写真
 特に「堤橋」は、明治40年に横内に浄水場が設けられ、上水道施設の普及によって水道管を通す「水道橋」としての役割をなした。
 堤川は、かつて横内城主「堤弾正(つつみだんじょう)」が開削工事をなして開発したといわれているが、もとは現在の流れとは違って蛇行していた。そのためもあって大雨の際には、洪水が常習とされたものであったらしい。それが本格的な改修工事がなされ現在の形になったのは、昭和10年代になってからだった。それまで蛇行していたのを直線的なものにしたのであるが、それでも旧流だった部分が沼や湿地として残っていた。
 それらが埋め立てられ、そこに建ったのが「ガラス工場」で、最初は佐々ガラス工場、その後下流部分の埋め立て地に高橋ガラス工場(現在の北洋ガラス)ができたのである。
【民俗部会調査協力員 三上強二】

※『広報あおもり』1997年9月1日号に掲載


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