あおもり今・昔2

青い森

 最近、各地で「道の駅」設置の動きが見られる。「駅」とは、言うまでもなく鉄道の駅ではなくて、昔、街道の要所に設けられた、交通や通信のために馬や人夫などを供給する中継地であり、それによって宿屋・飲食屋などがあって、往来する人たちで賑わっていたものであった。
 駅と駅とをつなぐのは、当然“道”である。参勤交代制がしかれてからは、そのための道が幹線となり、「お成街道」と言われた。青森は、太平洋側の主道「奥州街道」と、日本海側の「羽州街道」双方の終着地であった。
合浦公園付近の松並木
▲合浦公園付近の松並木
 かつてこの街道には、その歴史を物語るかのように松の樹が植えられていた。それも海に近い所では黒松、内陸部では赤松が見られた。ところが戦時中に、航空機の燃料に使うということで多くの樹は伐採されて、その根は「松根油」の原料となり、幹は木造船の材料となったため、いわゆる「街道松」の景観は見られなくなってしまった。それでも市内では、少しではあるがその名残がある。合浦公園の中央を東西に走る道路沿いとその一部には当時をしのばせる松がまだ見られ、津軽藩主が休んだと言われる「三誉(みよ)の松」も、健在である。その他、八重田、沖館から油川に至る道でも見られるようだ。
 青森は、善知鳥(うとう)村と言われた漁村が、寛永元年(1624年)に派立(はだち)となり、港町となったが、町の中央部にあったいつも青々としていた松の森が、それまで入船の目標として親しまれていたことから、「青森」と呼ばれるようになったと言われている。そしてその森が、その後「松森町(現堤二丁目)」(諸説有り)となった。
【民俗部会調査協力員 三上強二】

※『広報あおもり』1997年8月15日号に掲載


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